藤平朝雄 氏

【朝の挨拶 真酒谷浩文幹事】

【会長挨拶 中浦政克会長】

能登の明るい話題のひとつに日本航空高校石川が能登初の甲子園出場となり、輪島市では祝砲の花火と無線放送がありました。
私も高校時代は野球をしていましたが、日本航空高校の地元選手である泉君のお父さんは私の2学年先輩で、当時能登からの悲願の甲子園へと決勝戦では星稜高校対輪島高校4−2で負けてしまいましたが、泉さんは決勝戦までノーヒットで、決勝戦で4本のヒットを打ちました。今回の決勝戦では、泉さんのご子息も決勝戦までノーヒットでしたが、決勝戦でホームランを打ち、能登からの甲子園の夢がご子息に繋がってようやく実現することになりました。
泉さんは、保護者会の代表として新聞に載って話しておられましたが、「日本航空高校は、地元より外から来た選手が多いのですが、能登、輪島に住めば、みんな輪島の子供だ。」と言われた言葉がとても印象的でした。
先般、東京でお世話になっている特殊運輸会社の専務さんにお会いしましたら、特殊運搬は、車の少ない深夜や早朝など不規則な時間に仕事をするので、早い出勤、遅い出勤の社員とのコミュニケーションをとる工夫として出社した社員に自分がお茶を入れて送り出すことを習慣にして、毎朝5時前には出社するのだというお話をお聞きして、ほんとうに頭が下がる思いがしました。
本日の講師、能登の歴史、文化に造詣が深く、客観的な視点から能登を見てこられ、能登の不思議な魅力を発信しておられる藤平さんの姿勢にはいつも敬服いたしております。今日はよろしくお願いいたします。

【会員スピーチ 中崎行雄 氏】石川県倫理法人会 会長

昨晩は宇出津に宿泊し、この会場に5時半に到着しましたら、開け放した板戸の中から役員朝礼の元気のよい声が響いておりました。
能登のこの地に、心を耕す精神道場として、今日の17回目が、百回、千回と続いて、この会が精神的支柱になれる心の勉強をしていくことが、能登活性化の根本的要因となり、さらに日本を変えていく原動力になっていただきたいと思います。

【講話 藤平朝雄 氏】能登半島広域観光協会相談役 石川県観光スペシャルガイド

私は生まれも育ちも東京都目黒ですが、能登に住み41年になります。能登は奥行きが深いので、まだまだ知らないことがたくさんあります。
初めてこの会へ出席させていただきましたが、国文学者で、万葉学者でもある中西進先生は、商いをする人には神仏を拝むことや倫理感がなければばらないと言われたことを思い出し、学者が商いについて話されることにもどこかひとつに繋がっているのだと感じさせていただきました。
1954年(昭和29年)今から55年前のちょうど今頃、文化人類学者であり、写真家、登山家としても著名なイタリア人、フォスコ・マライーニさんが、1か月間、輪島市から50km沖にある舳倉島に滞在した時の記録が、昭和39年舳倉島の海女の30枚の写真とともにドキュメンタりーとして綴られて未来社(海女の島ー舳倉島 フォスコ・マライーニ著・牧野文子訳)により紹介されていますが、昭和29年は敗戦の後遺症から脱しきれない戦後の復興も半ばの頃のお話です。
フォスコ・マライーニは、昭和13年北海道大学アイヌ民族の研究するために日本に渡りましたが、戦時中は怪しい外国人と思われて収容所へ入れられ、昭和21年に解放されました。復興から立ち上がる庶民の姿や固有の原風景など記録に残す為に日本各地を巡り、日本を紹介する中で、海女にとても興味を持ち、民族学者、安田徳太郎先生に相談したところ、
「日本人の心を持ったほんものの海女が舳倉島に行くといる。そこでは、決して人を招くことや歓迎することはしない、冷たいカーテンが引かれているから・・・」
と言われた言葉を胸に秘めながら、7月24日夜行列車(SL)を乗り継ぎ、三井駅へと丘陵を越える蒸気機関車が、「今にも死にそうに喘ぎ喘ぎながら登りようやく輪島に着いた。」と書かれています。
富士屋旅館に泊まり、食糧や身の回りの品々、蚊帳や、お土産など調達して、7月26日、16tのへぐら丸に乗り込み、舳倉島の法蔵院(輪島市法蔵寺分院)に付属する二つの部屋で1ヶ月滞在しますが、同行者のアメリカ人女性ペギー、日本人映画監督と助手の4名には島民との間に目には見えない冷たいカーテンが引かれていたようでした。
島民との接点を求めて、マライーニは、水中銃で2kg程の鯛を捕らえたペギーに島の女性と同じ様に上半身裸になるよう頼んだ所、ペギーは嫌々ながらも思い切って裸になったものの元々島の女性は裸同然で暮らしているのでペギーの裸には誰一人関心を示さず、水中銃の存在に強く関心を持ち寄ってくるようになり、このことで見えない冷たいカーテンがそっと開けられることになりました。
外国人から見たこの島の生活は、岩の筏に人と神仏が暮らしているようだと表現し、昭和42年まで島では自然と神仏が習合し盆と祭りが混然一体となって行われていました。
8月26日に法蔵院で経を上げて、27・28・29日にはふるまい酒や神輿を担ぎ、島の中を神様の赴くままに煉り回る様を地元の漁師が神様の思し召しのままにと表現されるようなおおらかさがあり、マライーニの目に映った海女の島は、忘れられた「日本人の心と暮らしがいきいきしている」と暖かな眼差しで見出しています。
七つの神社と観音堂、法蔵院、龍神池、築山群なども点在し島中が神仏で守られていて28日の大祭には供物を葦で作った舟に流すなどの先祖への供養も行い、日本人の本来の在るべき様を持っているところであるとマライーニは書いています。
マライーニの一ヶ月の滞在の内に、絶海の孤島である舳倉島の海女から、「無心こそ、幸福の智慧を生む」という本質を学び、七つ島のひとつである御厨島の厳しい絶海の淵、深海20mまで勇敢に確実に潜る妙子の姿はにこやかで明るくて天女のような娘でありみごとな自然との調和のとれた海女であり、70歳を過ぎた女性も凛としていてひとりとして背筋の曲がった人がいないと記しています。
定期船が通うようになって、島の暮らしも少しずつ変わり精神構造も変わりましたが、1912年(大正元年)に生まれ、92歳で生涯を閉じたマラニーニは、見失うものが多い中で、言葉、宗教、倫理感などが違う中でも私達が忘れて去った本来の人と暮らしのありようを舳倉島の海女から教えられたと話しています。
最後に、私がこよなく愛する歌であります「海の子守歌」を最後に歌わせていただきます。

≪海の子守歌≫   海に生まれて  海に行く
             海女のこどもは 今日もまた
             ひねもす舟の ゆりかごに
             ゆられ ゆられて 波のうえ
   ありがとうございました。

【誓いの言葉 井川國雄専任幹事】

【今日の朝ごはん】