神谷正一 氏

【挨拶 高名由美子 副会長 】

能登準倫理法人会が 3 月 25 日に開設され、2 ヶ月が経ちました。
第 7 回目のMSは、航空自衛隊第 23 警戒群司令輪島分屯基地司令、神谷正一様を講師にお迎えしました。
私は現在、航空自衛隊輪島分屯基地女性友の会「なでしこ会」に所属させていただいておりますが、それまでは、国防とか自衛官のお仕事のことはよくわからないでおりましたが、日々、厳しい訓練と昼夜を問わずに交代で任務に当たられておられる隊員さんのお蔭で、私たちは安心して安全な日々が過ごしていけることを改めて知ることになりました。
そのようなご縁から、神谷司令が、3 月 24 日に防衛省より輪島分屯基地司令としてご着任されまして、武道(合気道)の精神を軸にして、山岡鉄舟先生の生き方からリーダーとしての心構えを学ばれているということをお聞きし、本日のMSでお話をお伺いさせていただくことになりました。みなさまのお役に立てていただけましたら嬉しく思います。


【会員スピーチ 七尾市倫理法人会 丸山善広氏・能登氏】

無名塾のロングラン公演「マクベス」が、9 月 18 日から、11 月 15 日まで行われます。50 名のエキストラや馬も登場し、今回は中能登町能登演劇堂のみの公演です。ご来場をお待ちいたしております。


【講話 航空自衛隊 輪島分屯基地司令 神谷正一氏】

「使命感 山岡鉄舟の生き方に学ぶ」

私は、合気道を続けてまいりまして 30 年になりますが、自らを律するよすがとして、山岡鉄舟先生に私淑し、その生き方を学んでまいりました。それは、自衛官の「服務の宣誓」を、自分の信念、あるいは覚悟とするためでもありました。剣、禅、書の達人といわれた鉄舟先生は、天保 7 年、江戸の武士、小野朝右衛門の四男坊として生まれ、鉄太郎と命名。9歳から神陰流の剣術を学び、飛騨高山に移り住んだ 10 歳からは父が招いた井上清虎に北辰一刀流剣術を学びます。15 歳にして弘法大師の流れをくむ書を継承します。その後、17 歳で母を 18 歳にして父を亡くし、飛騨の高山から江戸へ幼い兄弟を連れて戻ることになります。

江戸では、井上清虎の紹介で千葉周作らに北辰一刀流を学び、鬼鉄との異名で、剣の道は道場の中ばかりではないと夜は竹刀を抱いて床に入り、昼は誰かれと言わずに試合を挑んだといいます。21 歳の時、山岡静山に槍術を学びますが、静山が急逝したため請われて静山の妹と結婚し、山岡姓を名乗ります。この頃から参禅しながら修行し、45 歳で剣禅一致の悟りを開きます。幕臣としては、出世よりも自ら鍛練することに重きを置き、動揺することなく事に当る為に、平素における覚悟を鍛練します。27 歳で浪士組の取締役を務め、政情不安定な中で、正しい道に導も、清河八郎暗殺に伴い、蟄居謹慎となります。この処分中に江戸城より出火、死装束を着て(死を覚悟して)、江戸城警備に当たります。鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗を持った新政府軍(官軍)5千人に対し、旧幕府軍1万5千人が敗退したことから、慶喜公は江戸城から上野の寛永寺へ移り和平の意志を表明。公の恭順の意を伝える為に、山岡静山の弟である高橋泥舟の推挙により、山岡鉄舟が一命を以って果たすと駿府静岡県)へ向かうことになります。

「万事は、胸中にある。(何があっても対応する覚悟)」と語り、勝海舟から西郷隆盛宛の書状を託されます。厳しい官軍の警護の中をくぐり抜けて駿府に到達し、西郷隆盛との面会、江戸明け渡しの際に、主君(慶喜公)を備前に預けることは受け入れることができないとのその鉄舟先生の立派な態度に感心し、西郷は、「分かいもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもんそ」鉄舟先生もその言葉に感動し、泣いて西郷に感謝したのです。鉄舟先生はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容と降伏の条件等を報告し、勝は西郷が鉄舟先生に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。三日後に江戸城無血開城となりました。

生死を超越して使命感を持ち、西郷隆盛をして、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた鉄舟先生の生き方には多くを学ばされます。その遺言には、人として大切なことは陰徳を積むことであると述べられています。